そして宙に逢う
美術家、五島三子男さん企画展『そして宙に逢う』の中で漂流した。
おそらく一生涯で、もう二度とは味わえないだろう空間だった。
前半生のハイライトとなるに違いない舞台を終えた瞬間、なにかが終わるとしたら今日のような日がいい、と感じる。
各人が自由に五島さんの世界を感じとり表現してほしい、という指示書を受けて、五島さんのアトリエに何度かお邪魔をした。
そこで資料としてお借りした五島さんのエッセイが今もなお、目の前に忽然と、ある世界を描き出す。----------------------------------------------------------------------
…八丈島の風景に眩暈した時の感情と油照りの宝金山の草地で起こる感情は、とても近いものでした。…その感情は「不在の私を見ている私」のように思えました。
移り行く命と理解するのに多くの時間は要りませんでした。三浦半島で見た草地の眩しい光と、時に吹き抜ける風の中にあった私の問いかけは。三界をまたぐ私だったのだと気が付きました。
草原の中に大きな門があり
疑いもなく子供がくぐる
歌人であるわが子の一首ですが、島を訪れた頃の私と同じ年頃の歌と思うと感慨深いものがあります。…
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本編を終えて今回の幸運な出来事にあらためて驚いている。企画・演出のY劇場、五島さん、共演の岩間さん、若尾さん、としるさん、増田さん、とのめぐり逢わせにあらためて感謝し。そして、いっしょに漂流いただいたご来場の皆さまに、心より。
五島さんのような佇まい、
余計なものをそぎ落として透明な歌に近づけないだろうか。
あるいは対照的に。
横須賀において半世紀以上、常に時代の裏側最深部(アンダーグラウンド)にいるY劇場の人間臭さ、泥臭さにまみれて。
生活のなかで、また歌いたいなにかが纏わりついてくるだろうか。
今回、動画クリエーターが残してくれた素材を元に映像にまとめた全編動画をはじめ、初日の夜、ギャラリーから抜け出せないで一人で自撮りをしていた動画等を転載する。
本番では、壁の向こう側でなにが起こっているか知らないまま歌っている。映像を見て「壁」が重要な舞台装置を担っていたことが分かる。おそらく演出が意図したものではなく、偶然だとも思いつつ、真相は分からないままにして、、、
いずれにしても演出家は野暮なことは答えてくれない。舞台の記録も残さない。言語化された感想(いわゆるアンケート)の収集も好まない。露と消えていく一瞬のために創作する、という実存主義を横目に自分は動画を振り返っている。
最後にお芝居の台本から一部始終を引用して日記を閉じる。
末尾の一言に、ゾクゾクっとした感動を何度でも蘇らせている。
それは必ずや、なにかを表現したいがゆえに彷徨い続ける者たちへの道しるべとなる。
(ネタバレ注)
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欠片1:
どうした?
欠片2:
俺、月に行こうかな。このままじゃ、ペラで終ってしまう。
月に行って、月の月になろうかな。
ね、どうだろう。行けるかな、月へ。
欠片1:
月の月か?!面白いね。――行けるさ、お前ならきっと行ける。
欠片2:
あんたは、どうするんだい?
欠片1:
私かい?、、、私は、ここにいる。
欠片2:
え?、、、波の音が強すぎる。
▶欠片1 両腕を壁に添って伸ばして行く。まるで、イエス・キリストの例の姿の様だ。
欠片1:
お前の声も、もう風に掻き消されて聞こえない。
私は、このままこうしてここにいる。
人々が、私の姿に何の感動も持たなくなる時まで、、、。
▶少し間があって、欠片1、欠片2、互いに歩み寄り、此方へ向けてお辞儀し、立ち去る。
(end)
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そう、ぼくらは人々がなんの感動も抱かなく日にも、ここにいる。
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