見届けの妻
会って間もないその人の忘れ物がお弁当(玄米おにぎり三個とゆで卵)だと分かりなぜか自分が食べることになったり、忘れ物を探しにいったサンバー車のエンジンが突然とまりレッカーに運ばれたり、同じ日に同じ人に二度会うことになった5月のある日
彼女が我が家で茹でたブロッコリーから、緑色のあたたかい蒸気が広がる。キッチンから食器棚、棚と壁の間をまわって、部屋々々の四隅まで、通し柱をきしませ、家全体が深呼吸をはじめる。五年ぶりの炊事のかほり。うわぁーっ、としか言いようのない情感が思わずのまま涙腺に蒸留され。
その靄の向こうに、
見えなかった顔が見えた。
自分が人生が終わるときに傍で見送っている人の姿が、はっきりと。
あ、きみだったのか。
数日して
「どうか見届けてほしいんです」
そう申し出て、スーパーフライングスタートというか、もはや逆走、というか、なにもかもすっと飛ばして、結論から分かっていて、ただ、我々にだけ分かる自然な風がそこへ向かって吹いていて。そんな流れに身をゆだねて。役所に赴く。
彼女はしれーっと「見届けの妻」と届け出る。そういう言葉の神様に愛された天賦のセンスが彼女にはある。
お役人に、漢字間違えてますね、とあっさり「未届けの妻」に修正されても……
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顔が見えなかった。
その日、呼んでも目覚めなくなったブナを抱いて、玄関を開ける。
「外の世界だよ。これからお前が自由に飛び回る世界では、いつでもそばにいれる」
そして一緒に空を見上げる、誰か。
その人は見えなかったけど。
顔が見えなかった。
物心ついてから考えることすら恐れていた、母の人生の末日。
「心配ないから」と嗚咽する自分の傍らで静かに頷いている。
「心配ないわね」と、開かなくなった瞼を、もう一度心の中で閉じて、ほっとした母の脳裏になお映っている、誰か。
その人は、見えなかったけれど。
その夜、夢を見た。
世界の終わりを告げる流れ星が、地表に降り注ぎ。
地獄門が開く光線の中で、離れたくない、と思うのは誰か。
強く握りしめた手の先をたどり。
その人の顔が見える。
はっきりと。
水蒸気の向こうに、描かれている。
きみだったのか。
今、迷いなく、そのシルエットと稜線をたどり。
その人が目の前にいる。
見届けの妻。
役所で漢字を修正されても。
かたくなにアクセントの位置がちょっと違う。
え? あ、はい、見届けの妻です。
こんなに美しい届出をする人をぼくは世界に知らない。
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